デビュー当日、会場の失笑を浴びたタイガーマスクが、翌週のテレビ中継で視聴率25%超を叩き出した。
1981年4月23日(木曜日)、東京・蔵前国技館。この日、日本プロレス史に永遠に刻まれる一夜が幕を開けた。大会名は「WFFビッグ・ファイト・シリーズ第2弾」の最終戦で、当日のメインイベントはアントニオ猪木 vs スタン・ハンセンのNWF選手権試合という超豪華カードだった。タイガーマスクのデビュー戦は、そのセミファイナル的な位置づけだった。
対戦相手として選ばれたのは、イギリス出身のダイナマイト・キッド(本名:トーマス・ビリントン)。「イギリスの爆弾貴公子」と呼ばれた彼は、この時点ですでにカナダやイギリスで高い評価を得ていたジュニアヘビー級の強豪だった。後に佐山サトル本人が語っているように、タイガーはイギリス遠征時代にキッドの名前を耳にしていたが、実際の試合は見たことがなかった。つまりデビュー戦の相手が「初対戦」というのも、驚くべき事実だ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 🗓 日時 | 1981年4月23日(木) |
| 🏟 会場 | 東京・蔵前国技館 |
| 🥊 対戦相手 | ダイナマイト・キッド(イギリス) |
| ⏱ 試合時間 | 9分29秒 |
| 🏆 決め技 | ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め) |
| 📺 テレビ中継 | 翌週5月1日放送(テレビ朝日「ワールドプロレスリング」) |
キッドがタイガーを受け入れたことは、後に「デビュー戦の成功はキッドなしには語れない」と言われるほど重要だった。キッドは一発一発の技に命を懸けるスタイルで、タイガーの華麗な動きを引き立てる最高の受け手になった。つまりキッドが対戦相手でなければ、あの伝説のデビュー戦はなかった、とも言える。
「失笑から始まった伝説」——これほど劇的なデビューはプロレス史上ほかにないだろう。
仕掛人の新間寿氏(当時・新日本プロレス営業本部長)は、イギリスでサミー・リーとして活躍していた佐山聡の緊急帰国を手配するにあたって、肝心のマスクとコスチュームの発注を忘れていた。気づいたのはデビュー4日前。当時、日本にはルチャドールのマスクを作れる職人も工房もほとんどなく、新日本プロレスへグッズを納品していた「ビバ企画」に急造を依頼した。
仕上がったものは、白い布地にマジックで模様を描いただけのような、お粗末な代物だった。マントもシーツのような薄っぺらいものだった。佐山本人が後のインタビューで語っている。
「マスクは布きれみたいで、なんだこれ、と。マントもシーツみたいで、子供用かと…。これは大変なことになったなと」(佐山聡・スポーツ報知インタビューより)
会場に入場したとき、蔵前国技館のファンから失笑が漏れた。新間氏は慌ててリングサイドから「早くマントを脱げ!」と指示したほどだった。タイガー自身も「恥ずかしくて早く帰りたい」という気持ちしかなかったという。これが実話だ。
当時の新日本プロレスは「ゴッチ直伝のストロングスタイル」「プロレスこそ最強の格闘技」を掲げるシリアスな団体だった。「アニメのキャラクターをプロレスラーにする」という発想に対して、熱心なファンほど「新日本プロレスも終わりか」と冷めた目を向けていたのも事実だ。
粗末だったという点は事実です。
ゴングが鳴った瞬間、蔵前国技館の空気が一変した。これが事実上、タイガーマスク伝説の始まりだった。
佐山は後に「あの試合は自分ではなくサミー・リーとして動いた」と語っているが、その「サミー・リー」の動きこそが、日本のプロレスファンが見たこともない次元のものだった。まず観客を驚かせたのは「タイガー・ステップ」と呼ばれる独特のフットワーク。まるでボクサーとダンサーを合わせたような、軽快なステップでリング上をクルクルと動き回る。それだけで会場がざわめいた。
続いて繰り出されたのが角度のある回し蹴り、瞬発力抜群の投げ技、そしてプロレス図鑑でしか見たことがなかった「サマーソルトキック」。当時これは「エドワード・カーペンティア」という往年の名選手の技として知られていた幻の技で、それを現実の試合でさらっと披露したのだ。これは使えそうです。
実況を担当していた古舘伊知郎アナウンサーは、この動きを「四次元殺法」と表現した。この言葉はそのまま代名詞となり、タイガーマスクのスタイルを象徴するキーワードとして今も使われている。試合を解説した櫻井康夫氏は「タイのムエタイの動きですね」と発言。当時の日本のプロレスファンには「どこの人間がこんな動きをするんだ」という驚きが伝わってくる。
そして試合の締めくくりは、新日本プロレスの聖なる技ともいえる「ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)」。当時この技は猪木や藤波の必殺技として特別視されていたもので、正体不明の小柄なマスクマンがこれを軽々と決めてしまったことで「このタイガーは只者ではない」という確信が会場全体に広がった。結果は9分29秒、タイガーの勝利。
リングサイドにいた仕掛人・新間寿氏は、サマーソルトキックが決まった瞬間にエプロンを思わず叩いて喜んだ。そのすぐそばでは原作者・梶原一騎氏も「すごい、すごい」と驚嘆していた。失笑が歓声に変わり、歓声がどよめきに変わっていく。その9分29秒の劇的な変化が、日本プロレス史上に永遠に刻まれた。
初代タイガーマスクの正体は、山口県下関市出身の佐山聡(当時24歳)。1957年11月27日生まれで、1975年に17歳で新日本プロレスに入門した。身長173センチという当時の日本人レスラーの中でも小柄な体格だったが、その身体能力は規格外だった。
当時の記録によると、体重は100キロ近くありながら100メートル走は12.7秒、背筋力は293キロ、垂直跳びはなんと73センチ。垂直跳び73センチといえば、NBAバスケットボール選手の平均と同水準という数値だ。こういった基礎身体能力が、あの「四次元殺法」の土台になっていた。
入門後は猪木の付き人を務め、道場での練習でも「一回見たら何でも覚える」「柔軟性も腕力も脚力も異常」と先輩レスラーたちに言わしめるほどの才能を見せた。1978年からメキシコに渡り、NWAミドル級王者になるほどの活躍を見せた後、1980年からはイギリスへ。イギリスでは「サミー・リー」名義でタイガーマスクブームに匹敵するほどの人気を博していたという。
この圧倒的な能力を持つ佐山がタイガーマスクとしてデビューするきっかけになったのは、新間寿氏からの帰国命令だった。イギリスで新設タイトルマッチを控えていた佐山に対し、新間氏は「アントニオ猪木の顔を潰すことになる」という言葉でなだめすかした。本人は「1試合だけやって帰る予定」だったというから、後の2年4か月にわたる伝説的活動を本人でさえ予想していなかったのが面白い。
入門時には、新間氏が猪木から「また小さいのを入れやがって!」と叱られたというエピソードも残っている。あの失笑から始まった伝説の裏側に、こういった人間くさいドラマがいくつも積み重なっていた。
プロレスファンブログ「黄金の虎伝説:初代タイガーマスク佐山サトル 1981年編」(デビュー当日の証言と詳細な試合記録)
当日、4月23日の試合がテレビ放送されたのは実は翌週の話だ。当時の新日本プロレスの中継は毎週金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系)だったが、デビュー戦翌日の4月24日はプロ野球中継が入ったため放送が飛んだ。結果として、全国に届いたのは1週間後の5月1日となった。
当時はインターネットも動画配信もSNSも存在しない。大会に足を運んだ人だけが知っている「伝説のデビュー戦」の衝撃は、そのまま丸1週間、全国に伝播しなかった。それだけに、5月1日の放送は多くの人がテレビにかじりついて見ることになった。反応は予想をはるかに超えるものだった。
放送ではタイガーマスクvsダイナマイト・キッド戦と、猪木vsハンセン戦の2試合が放映された。この日の放送で、全国の子供たちはタイガーマスクの衝撃を目の当たりにした。翌日の教室では「昨日のプロレス見た?タイガーマスクすごいよね」という会話が飛び交ったと、当時小学生だったファンたちは口を揃えて語る。
その後のブームは凄まじいものだった。キッドや小林邦昭、ブラック・タイガーとの名勝負が続く中で、視聴率は25%超を記録。新日本プロレスの道場には子供たちが連日のように押しかけた。新日本プロレス在籍中の戦績は125勝1敗8引き分けという驚異的な数字で、シングルで喫した唯一の負けはフェンスアウトによる反則負けだった。フォール負けはただの1度もなかった。これが結論です。
なお、タイガーマスクのデビュー前日となる4月20日から、テレビ朝日系でアニメ「タイガーマスク二世」もスタートしていた。メディアミックス戦略として仕掛けたものだったが、当時の「通」のプロレスファンには「ストロングスタイルの新日にアニメのキャラは不要」という反感も強く、その逆風をはねのけてブームを作ったのは純粋に「試合の凄さ」だった。
タイガークロニクル「初代タイガー衝撃のデビュー戦、TV中継され全国へ!」(当時の中継事情と視聴者の証言を詳細に解説)
初代タイガーマスクのデビュー戦は歴史的事件だったが、その「伝説」が現代においても非常に高い経済的・文化的価値を持ち続けているという視点は、意外と語られることが少ない。
活動期間はわずか2年4か月(844日)だったにもかかわらず、関連書籍の刊行は今も続いている。2022年には「初代タイガーマスク デビュー40周年記念Blu-ray BOX」が発売され、プロレスファン垂涎の商品となった。テレビ番組「なんでも鑑定団」で現存するタイガーマスク実使用マスクに1,000万円の値が付いたというエピソードは、その文化財としての価値を象徴している。
なお、デビュー戦で着用した急造マスクはポピー(当時の玩具メーカー)製ではなく、新日本プロレス社内で作られた「手製品」だったとも言われている。マスクの変遷もファンには興味深いテーマで、デビュー戦の「手描きマスク」から始まり、「縫いぐるみタイプ」「牙付きマスク」と進化し、やがてデザインが完成されていった。
また、タイガーマスクの伝説は「社会貢献」という形でも現代に受け継がれている。2010年から始まった「タイガーマスク運動」は、匿名で児童養護施設の子供たちにランドセルや現金を贈る活動として社会現象化した。2011年には全国で290件もの「伊達直人」が現れたという記録がある。アニメの主人公・伊達直人の精神を受け継いだこの活動は、初代タイガーマスクのデビュー戦から40年以上を経た今も続いている。
1981年4月23日の9分29秒が生んだ波紋は、今も日本のプロレス界だけでなく、社会全体に静かに広がり続けている。それほどのものを生み出したデビュー戦だった、ということに改めて気づかされる。
TC エンタテインメント「初代タイガーマスク デビュー40周年記念Blu-ray BOX 特設サイト」(デビュー戦ノーカット映像収録の公式商品情報)