「アイデン貞貞メルトダウン」を歌詞だけ見て楽しんでいると、カラオケで90点台が出ても実は曲の半分しか体験していないことになります。
「アイデン貞貞メルトダウン」は、TVアニメ『お兄ちゃんはおしまい!(おにまい)』のオープニングテーマとして2023年1月にリリースされた楽曲です。作詞・作曲・編曲はすべてやしきん(本名:小林康太)が担当し、歌唱はコスプレイヤーのえなこと、マルチエンターテイナーのP丸様。がコラボしています。
曲名のタイトル「アイデン貞貞メルトダウン」は、英単語の「Identity(アイデンティティ)」を「アイデン+貞貞(ていてい)」という形に分解・変形したタイトルです。「貞」という漢字をあえて当て字として使い、「自分らしさ(アイデンティティ)が溶けていく(メルトダウン)」というテーマを表現したユニークなタイトルになっています。
歌詞は冒頭から「アリ!?ナシ!?ナシ!?アリ!?」というフレーズで始まります。一見すると意味不明な電波ソングのようですが、この「ついてる・ついてない」という言葉は、主人公・緒山まひろが薬で女の子になってしまった状況を暗示しています。アニメ本編の文脈を知ることで、この歌詞の意味がまったく違って聞こえてきます。
歌詞の構成は大きく分けると以下のような流れになっています。
フルバージョンの尺は4分03秒で、TVサイズ(1分32秒)では聴けないCメロやラストサビが収録されています。フルを聴かないと「ひとりのようで ひとりじゃなかった」というポジティブな結末に辿り着けません。つまり、TVサイズだけでは歌詞のテーマが完結しないということです。
参考リンク(歌詞全文・ふりがな付き)。
えなこ アイデン貞貞メルトダウン feat. P丸様。歌詞ふりがな付き - うたてん
この曲の歌詞は、単なる「電波ソング」として聴いてしまうと本質を見逃します。じつは全体が、主人公・緒山まひろの内面の揺れを丁寧に表現した一本道のドラマになっています。
サビで繰り返される「アイデン貞貞」は「アイデンティティ」を意味します。「産まれたばかり a sense of wonder」というフレーズは、まひろが女の子として生まれ直した感覚を「ワンダー(不思議・驚き)」として表現したもので、恐怖ではなく好奇心として描いているのが特徴的です。
「深層心理 目覚めたまえ 眠れるアイツ」という歌詞も深読みのしがいがあります。「眠れるアイツ」というのはまひろの内側にいた「本当の自分」を指していると解釈できます。つまり、男性の体に封じ込められていた別の自我が女性の体になったことで目覚め始めた、という読み方が成立します。これは歌詞というよりほとんど心理学的なテキストです。
「白か黒かで決めた(オセロ!)0か100しかないの(極論!)生きづらい俗世だね(娑婆ばい!)」というCメロのパートはとりわけ独特です。二元論的な思考が生きづらさを生み出すという批評が、ポップなノリのなかにさりげなく込められています。これは現代の若者が感じる「どちらかに決めなければならない」というプレッシャーへの風刺とも読めます。
結論は「ひとりのようで ひとりじゃなかった」です。アイデンティティが溶けてしまう恐怖から始まった物語が、「それでいい、仲間がいる」という肯定的な着地点を迎えるのです。この構成は、アニメ本編でまひろが周囲の人間関係のなかで少しずつ変化していく成長物語と完全に一致しています。
参考リンク(リスアニ!による楽曲評論)。
えなこ feat. P丸様。「アイデン貞貞メルトダウン」は令和の電波アニソン - リスアニ!
歌詞をより深く楽しむためには、アニメ『お兄ちゃんはおしまい!』の基本設定を知っておくことが不可欠です。アニメの舞台は現代日本で、主人公は引きこもりのダメニート・緒山まひろ(声:高野麻里佳)。彼は妹・緒山みはり(声:石原夏織)が作った薬を飲まされ、ある朝起きると女の子の体になってしまいます。
「インドア警備隊 紫外線さよなら(バイバイ alright!一級在宅 allday!)」というAメロ歌詞は、薬を飲まされる前のまひろの引きこもり生活を軽快に描写したものです。部屋から出ず、ゲーム三昧だった日常が「一級在宅 allday(引きこもり最強!)」というユーモアで表現されています。
「おさんぽ調査団 瀕死でおかえり(ヘイヘイ fall down!三流散策 weekend!)」という2番のAメロは対比が面白いです。女の子になったまひろが外出を試みるも、慣れない外の世界に疲弊して帰ってくる姿を「瀕死でおかえり」と表しています。たった数行の歌詞で、まひろの内向きな性格と変化の難しさを見事に表現しています。
「正論マンがパンチした」というフレーズも秀逸です。これは、「きちんと外に出なさい」「ちゃんとしなさい」という社会的な正論が、時に人を追い詰めてしまうことを「正論パンチ」と揶揄した表現と読み取れます。笑えるフレーズですが、引きこもりや社会不適合者が感じる息苦しさをシンプルに言い当てた一節です。これは使えそうです。
アニメ本編でまひろは結果的に女の子としての生活を通じて、人との関係を築く楽しさに気づいていきます。歌詞のラストで「ひとりのようで ひとりじゃなかった」と結論づけるのは、まさにそのアニメの結末をOP段階でさりげなく示唆していたのです。
「アイデン貞貞メルトダウン」の大きな特徴のひとつが、歌い手ふたりの個性の違いです。えなこはコスプレイヤー・グラビアアイドルとして活動するマルチタレントで、歌手活動でもアニソン界での知名度を持ちます。P丸様。は動画投稿サイトを中心に活動するマルチエンターテイナーで、独特のハイトーンボイスと個性的な歌い回しが特徴的です。
この2人のコラボが特に評価されたのは、声質の対比が楽曲の構造にピッタリ合っていたためです。えなこの伸びやかでやや大人っぽい声と、P丸様のキャラクター性の高い声が交互に現れることで、まるでアニメのキャラクターたちが会話しているような臨場感が生まれます。
SpotifyおよびApple Musicでは、「えなこパートver.」と「P丸様。パートver.」という2種類の音源も配信されており、それぞれ片方のボーカルだけを際立たせたバージョンを楽しめます。これを聴き比べることで、どのフレーズをどちらが担当しているのか一目瞭然になります。カラオケで歌い分けを練習したい人にとって、この音源は非常に役立ちます。
リリースはポニーキャニオンから2023年2月15日。EPには「フルサイズ」「TVサイズ」「えなこパートver.」「P丸様。パートver.」「インストゥルメンタル」の5曲が収録されています。
2023年冬アニメのDAMカラオケランキングでは第4位にランクイン、同年の年間アニメ主題歌ランキングでも25位と健闘しました。また、アニソン専門アワード「アニソン派!楽曲アワード2023」ではベストトラックメーカー賞を受賞しています。これだけ幅広い評価を得た曲ということですね。
参考リンク(DAMカラオケランキング発表)。
2023年冬アニメのDAMカラオケランキングTOP50発表 - DAMカラオケ
やしきん(小林康太)は1988年生まれのソングライター・編曲家です。過去にも『てーきゅう』第2期OP「メニメニマニマニ」(2013年)などの電波アニソンで知られており、「アイデン貞貞メルトダウン」はその集大成ともいえる1曲と評されています。BPMは155と、かなり速い部類に入ります。標準的なポップスが120〜130程度であることを考えると、走り続ける短距離選手のような疾走感があります。
注目したいのは、やしきんが歌詞のなかに仕込んだ「表記遊び」の多さです。例えば「蟻あり!?梨なし!?nAシ!?ァ理り!?」というフレーズは、「アリ(蟻)」と「ナシ(梨)」という果物・昆虫の漢字を使いながら「あり/なし」の意味と掛け合わせる多層構造になっています。「自我 字が 崩壊!」という箇所では、「自我」と「字が」を同音で重ねるダジャレ的な技法が使われており、歌詞そのものが「文字としての崩壊」を体現しています。
つまり、この曲は「聴く」だけでなく「読む」ことを想定した作りになっているのです。歌詞カードや歌詞サイトで文字を目で追いながら曲を聴くと、音だけでは気づかない仕掛けが次々と発見できます。
また、やしきんがリスアニ!RADIO(2023年5月配信)のトーク内容として評されていた「昔ながらの匂いがちゃんとしているし、今っぽさもある」という点は非常に本質をついています。2000年代後半に全盛期を迎えた電波アニソン・アニクラ文化のDNAを受け継ぎながら、声優ではなくコスプレイヤーとVTuber系エンターテイナーを起用するという令和的キャスティングがハマった結果、懐かしさと新鮮さが同時に感じられる唯一無二の楽曲に仕上がっています。
一般的なアニソン考察では「テンポが速くて歌えない難曲」として語られることも多い本楽曲ですが、じつはBPM155というテンポは歌詞に込められた「アイデンティティが溶けるほどの混乱と興奮」をそのまま音に変換したものと解釈できます。速く歌えないのは当然で、それこそがまひろの混乱状態を体験させるための演出とも言えるのです。
参考リンク(やしきんのプロフィール)。
やしきん - Wikipedia(作詞・作曲・編曲家としての経歴)