あの長いアゴのせいで、帝はイケメンではなく「気持ち悪いキャラ」として記憶に残っている。
2015年3月の地上波放送直後、Yahoo!リアルタイム検索における「帝 アゴ」を含むツイート数は放送翌日だけで1万件以上を記録しました。これは現代のSNSトレンドで言えば「炎上」に近い注目度であり、1つのアニメキャラクターの「顎」がここまで話題を席巻した例は異例のことです。
視聴者の一人が実際に帝の顔をスクリーンショットしてアゴの角度を計測したところ、約67度という数値が出ました。一般的な顔の輪郭のアゴの角度は90〜100度程度とされているため、これは標準よりも20度以上も鋭角になっているということになります。分度器で測ると「67度」は、ほぼ正三角形(60度)に近い鋭さです。これが視覚的なインパクトの大きさを裏付けています。
意外ですね。その後このアゴは京都・伏見稲荷大社のキツネ絵馬に描き込まれ、カプチーノやマヨネーズ、バナナ彫刻まで御門アゴが侵食するブームへと発展していきました。ネット上でのキャラクター人気という意味では、本作の主要登場人物に並ぶほどの存在感を発揮しています。
このアゴの存在感が異常なのは、帝が「最高権力者」という、物語の中で最も威厳があるはずのキャラクターである点が大きいでしょう。つまり、帝というのは「恐れ多い存在」として描かれるはずなのに、見た目の強烈さが先行して笑いを誘ってしまうという、意図的な逆説が生み出した現象と言えます。結論は「アゴが帝というキャラクターを記号化することに成功した」ということです。
帝のアゴが生まれた直接のきっかけは、高畑勲監督が人物造形・作画設計を担当した田辺修氏に向けて発したたった一言でした。アート資料集『ジ・アート・オブ かぐや姫の物語』の中で、監督が「美男だけど一ヶ所バランスを崩してみてはどうか。たとえばアゴとか」と意見したことが明かされています。
これは「たとえば」という非常にカジュアルな提案でした。この一言が伝説の始まりだったということです。
本来、田辺修氏は帝のデザインを「最もきれいな顔にしたい」というコンセプトで進めていたそうです。石作皇子として構想していた正統派イケメンのキャラクターを帝に転用する案もあったほどです。それが高畑監督の「一箇所だけ崩す」というアドバイスにより、あのアゴが誕生しました。
高畑勲監督は、著書『一枚の絵から 日本編』の中で、日本の肖像画が持つ性質について「西洋の肖像画とは違い、線だけでパーツを組み合わせることで特徴を捉えられる。しかしその表現はカリカチュア(風刺画)と紙一重になる」と語っています。つまり帝のアゴは偶発的な産物ではなく、日本画の表現手法を踏まえた上での、意図的なカリカチュア表現だったのです。これは使えそうです。
また、本作が採用した「プレスコ(先に声を録音し、後から映像をつける方式)」の影響も見逃せません。声優を担当した歌舞伎俳優・中村七之助の声は若々しく高貴な印象を持ちます。一方でその顔立ちはシャープでおちょぼ口気味。歌舞伎の世界では江戸時代からアゴ長の血統が続いており、中村七之助もその系譜にあります。スタッフが毎日その声を聞きながら絵を描いていくプレスコ方式では、声優の顔立ちが自然とキャラクターに滲み出てきます。帝のアゴは「監督の意図」と「声優の系譜」が重なった結果とも言えます。
参考:帝の顎が生まれた制作秘話(金曜ロードショー公式Twitterまとめ)
Togetter:『かぐや姫の物語』御門はなぜ顎が長いのか?それは高畑監督のある発言がきっかけだった
帝のアゴが長い理由として、リサーチ段階で「平安時代の食生活」という観点から考察した記事も登場しています。これはあくまで考察の一つですが、知識として面白い視点なので紹介します。
一般的に顎の発達は食生活や遺伝と深く関係すると言われています。平安貴族はよいものを食べているイメージが強いのですが、書籍『平安朝のファッション文化』によると、実は当時の食事は強い咀嚼力を必要とするものが多かったとされています。主食は水分の少ない「強飯(こわいい)」と呼ばれる硬めの蒸し飯で、根菜類が中心の食事でした。貝・魚・肉などは細かく刻まれてはいたものの、生食で提供されることもあったと言います。
その結果、貴族といえども顎は発達していたとされており、平安絵巻で描かれる貴族の「ぷっくりした下ぶくれ顔」もアゴが発達した結果という説があります。アゴが発達したということですね。
ところが平安後期以降は食事が柔らかくなっていき、顎は徐々に退化。江戸時代の徳川家歴代将軍の肖像画を時系列で見ていくと、将軍たちの顎が世代を追うごとに細くなっていくのが確認できるという研究もあります。最後の将軍・徳川慶喜の若い頃の写真に至っては、現代人と大差ないほどシャープな顎になっています。
帝のアゴが鋭く長いという特徴は、こうした平安前期の顎発達の流れとは少し異なる表現です。ただし歌舞伎役者・中村七之助の系譜を踏まえた「下顎が発達した形」という解釈も成立します。食文化と骨格の歴史という角度から帝の顔を読み解くのは、一風変わった視点として楽しめます。
比較として、実際にあごの長さが歴史的に際立っていた事例としてよく挙げられるのがハプスブルク家です。近親婚を繰り返したことで長アゴ遺伝子が濃縮し、神聖ローマ皇帝カール5世は顎が重すぎて常に口が半開きの状態だったとも言われています。帝のアゴはそこまで極端ではないものの、高貴な権力者として記号化するには十分なインパクトを持っています。厳しいところですね。
参考:平安時代の食文化と顎の関係を考察した記事
帝の言動は現代の感覚で見ると、強引なセクハラ・パワハラとして映ります。自ら忍びで(変装して)かぐや姫の屋敷に押しかけ、琴を弾く彼女に背後からいきなり抱きつくというシーンは、初めて見た人の多くが「気持ち悪い」と感じるものです。さらにその際に帝が放つセリフは「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」「私があなたを望めば、あなたは私のものになるのだ」というもの。自己中心的で独善的な発言です。
現代の価値観で言えばアウトです。
ただし、高畑勲監督はこれを単純な「悪役」として描こうとしたわけではありません。帝の造形や行動は「平安時代の権力構造を体現したリアリズム表現」として意図されており、当時の天皇は女性を望めば宮仕えを命じることができる存在でした。帝にとっての「寵愛」は、現代的な意味での「愛情」ではなく、自分の力を認識させる行為でもあったのです。
かぐや姫を高貴な存在として宮中に迎え入れようとする態度も、当時の価値観では「望外の光栄」とされていました。それを拒否するかぐや姫は、平安時代の社会規範の外側にいる存在として描かれています。アゴの強調された造形は、価値観の硬直性や「他者の声が届きにくい権力構造」を視覚的に表しているという解釈も成立します。
このシーンの重要な意味は、かぐや姫が帝の抱擁を拒絶した瞬間に体が幻のように消え、姫が「もうここにいたくない」と心の奥底で強く願ってしまったことです。この感情が月への帰還を決定的にした引き金とされており、帝の行動は物語全体の転換点として機能しています。帝というキャラクターが担う役割は思った以上に大きいということです。
アニメ版『かぐや姫の物語』での帝は、セクハラまがいの行動と強烈なアゴが印象に残るキャラクターです。しかし原作の『竹取物語』(平安前期成立)における帝は、かなり異なる一面も持っています。これが意外ですね。
まず、原作の帝は初対面でいきなり抱きつくという場面はありません。宮仕えを促した後にかぐや姫に翻弄されながらも、最終的には彼女との「文通」を3年間続けたとされています。現代に置き換えると3年間のラブレター往復です。アニメでは短時間の出来事として圧縮されていますが、原作ではより長い時間軸の中でかぐや姫と帝の関係が描かれていたのです。
そして原作で最も印象的なのは、かぐや姫が月へ帰る際に帝に「不老不死の薬」を贈ったエピソードです。しかし帝は手紙に「逢ふことも 涙に浮かぶ 我が身には 死なぬ薬も 何にかはせむ(姫に会えない世界で永遠の命など何の意味があろうか)」と詠み、薬を焼いてしまいます。この薬を焼いた山こそが日本一高い富士山であり、「不死の薬を焼いたから富士(不死)山と呼ばれるようになった」という由来説話が竹取物語の締めくくりにもなっています。
愛する人を失った悲しみから不老不死の薬を焼き捨てる帝の姿は、セクハラおじさんとは全く異なる純愛の人物像です。原作を知ると、アニメ版で「気持ち悪い」と感じた帝への見方が変わるかもしれません。アニメと原作を両方知っておくことで、高畑監督がどの部分を強調し、どの部分を省略したかが見えてくるのです。
作品の理解を深めたい方には、原作の現代語訳が読めるサイトや文庫版の竹取物語を参照することをおすすめします。原作を読んでからアニメを見返すと、帝の登場シーンの重みが一段と増して感じられるはずです。
参考:原作『竹取物語』の帝エピソードの現代語訳
古典朗読:竹取物語 現代語訳つき朗読|帝、かぐや姫を慕い、不死の薬を焼く
ここまで帝のアゴの誕生秘話や平安時代との関係、原作との違いを見てきました。最後に、「帝のアゴが物語全体のテーマとどう繋がっているか」という独自視点の考察を紹介します。
高畑勲監督が本作で描こうとしたテーマの一つは「地上の美しさと、地上の息苦しさの両面」です。かぐや姫は山での自由な暮らしを通じて地球の美しさを知る一方、都に移り住んでからは形式的な美の規範や権威による束縛に苦しみます。その束縛の象徴として機能するキャラクターが帝です。
帝のアゴは「美男だけど一箇所だけ崩した」デザインです。これはある意味、権力や美の基準が「9割は整っていても、1割の歪みが本質を暴く」という構造に似ています。完璧に整った存在ほど、一箇所の崩れが際立ち、見る者の不快感や違和感を呼び起こします。かぐや姫が月を懐かしむ気持ちを視聴者と共有させるには、地上の世界を「9割美しく、1割不快」として描く必要がありました。帝のアゴはその1割の不快感の視覚的な担い手だったとも解釈できます。
また本作の作画スタイルは「鉛筆で描いたスケッチがそのまま動く」というもので、線が荒く、輪郭が揺らぐことが特徴です。荒削りな線で描かれることで、帝の存在は「完成しきった権威」ではなく、「人間的な生々しさ」を帯びます。かぐや姫の疾走シーンで線が崩れて自由を表現したように、帝のアゴの線も権力の不安定さや滑稽さを表現しているのかもしれません。
もう一つ注目すべきは、絵コンテに「中国かぶれ」と記された帝の部屋の描写です。大きな漢詩の屏風、中国式の椅子と机が置かれたその部屋は、日本的な美の中に異質な権威を配置することで、帝が「外来文化への傾倒によって自分の本質を見失った権力者」という側面を持つことを示唆しています。つまり帝のアゴとその部屋の中国趣味は、どちらも「異質さ」の表れとして機能しているのです。
これらを踏まえると、帝のアゴは単なるギャグや笑いの要素ではなく、作品のテーマを語る上で欠かせないビジュアル装置だったことがわかります。高畑勲監督の「一ヶ所だけバランスを崩す」という言葉には、それだけの深い文脈があったのかもしれません。作品を見返す際は、帝のアゴだけでなく、部屋の装飾や視線の向き、表情の変化にも注目してみると、また新たな発見があるはずです。
参考:高畑勲監督の演出哲学とキャラクター造形の詳細
ciatr:『かぐや姫の物語』御門/帝(みかど)が気持ち悪い?あごが伸びた理由や抱きついた理由を解説