クモは「性別のない存在」として描かれているため、映画を見ただけでは性別が永遠にわかりません。
ゲド戦記の原作は、アーシュラ・K・ル=グィンが執筆したファンタジー小説シリーズで、「こわれた腕環(The Tombs of Atuan)」(1971年)や「さいはての島へ(The Farthest Shore)」(1972年)などが代表作です。
クモという人物が本格的に登場するのは、4作目にあたる「帰還(Tehanu)」(1990年)および「アースシーの風(The Other Wind)」(2001年)です。この原作において、クモの性別は意図的に明確化されていません。
ル=グィン自身が作品のテーマとして「ジェンダーと権力」を強く意識していたことが、この設定の根拠にあります。特に「帰還」執筆当時、彼女はフェミニズム思想の影響を深く受けており、「魔法使い=男性」という従来のファンタジーの固定観念を壊すことに注力していました。つまり原作です。
原作英語版では、クモに対して代名詞の使い方が意図的にぼかされており、翻訳版でも性別を断定する表現が避けられている箇所があります。これは「性別という枠を超えた存在」としてクモを位置づけるためのル=グィンの文学的選択です。意外ですね。
読者がクモを「悪役」として認識する際も、その悪意が性別に依存しない普遍的なものとして機能しています。このアプローチは、1970〜90年代のファンタジー文学の中では非常に先進的なものでした。つまり「クモの性別がわからない」のは設定ミスではなく、作者の意思です。
クモの正体について、映画(ジブリ・2006年公開)と原作では大きく異なる描写がされています。まず映画版から整理しましょう。
ジブリ版「ゲド戦記」(監督:宮崎吾朗)では、クモは長い銀髪を持つ老齢の魔法使いとして描かれ、「不死の力」を手に入れることを最大の目的としています。映画のビジュアルは明らかに「女性的な外見」を持たせており、声優も田中裕子さんが担当しています。見た目だけなら女性です。
しかし原作ではクモはもともと「男性の魔法使い」として描かれていた時期もあり、シリーズ中でその設定が変化・拡張されています。「帰還」の中では、クモはかつて魔法学校で学んだ魔法使いとして登場し、性別の呪縛から自らを解放することで禁断の力を得たとされています。これが原作の核心です。
不死を追い求める理由も重要です。クモは「生と死の境界(扉)」が壊れかけていることを利用して、死後の世界に踏み込まないために不死を手に入れようとしています。これは単なる権力欲ではなく、「死への根源的な恐怖」から来るものです。死ぬのが怖いということですね。
この動機は読者・視聴者に対して一定の共感を生む構造になっており、ただの「悪役」として単純化できない複雑さを持っています。クモが持つこの深みこそ、ゲド戦記が長く読まれ続ける理由の一つと言えます。
ジブリ映画版のクモが「女性」として認識されやすい最大の理由は、声優キャスティングにあります。田中裕子さんの演技は、妖艶さと冷徹さを兼ね備えた「女性の悪役」像をリアルに体現しており、視聴者に強烈な印象を与えます。これは使えそうです。
さらに映画のキャラクターデザインでも、クモは長い白髪、白塗りの肌、鮮やかな赤い唇など、明確に「女性的な美」を象徴するビジュアルを与えられています。これは宮崎吾朗監督および美術スタッフの解釈によるもので、原作の「性別不詳」という設定からは一歩踏み込んだ表現です。
ジブリ版では、クモとアレンの対比構造として「老いた女性の魔法使い」対「若い男性の主人公」という図式が採用されています。この構図は視覚的に分かりやすく、一般視聴者にとってのわかりやすさを優先した演出上の判断と考えられます。映画的な見せ方ですね。
一方で、この解釈に対してル=グィン本人は映画化に際して不満を表明したことでも知られています。2006年の公開後、ル=グィンは自身のウェブサイトで「原作の持つテーマやキャラクターが十分に尊重されなかった」というコメントを残しており、特にテナーやクモの描かれ方への言及がありました。作者は納得していなかったということです。
この事実は、映画を楽しんだ後に原作を読む動機としても機能します。原作と映画で「まったく別の体験ができる」という点では、ゲド戦記は非常に希少な作品と言えます。
ゲド戦記シリーズ全体を貫く重要な設定として「真の名前(True Name)」という概念があります。アースシーの世界では、すべての人・物には「真の名前」があり、それを知ることでその存在を支配できるとされています。これが基本です。
クモがこの設定においてどう機能しているかというと、クモは自分の「真の名前」を捨てることで禁断の力を得たとされています。原作「帰還」での解釈では、性別という枠組みを捨てることと「真の名前」を捨てることが連動して描かれており、クモはその代償として「人間としての根幹」を失っていきます。
真の名前を捨てるということは、アースシーの世界観では「存在としての同一性を失う」ことを意味します。クモが不死を求めるのは、同一性を失ったがゆえに「死後どこへも行けない」という恐怖と裏表の関係にあります。これは読み解きがいのある設定ですね。
また、1作目「魔法使いゲド(A Wizard of Earthsea)」(1968年)でゲドが追い続けた「影」との対比としても、クモは重要な位置を占めます。ゲドが「自分の影(内なる闇)」と向き合うことで成長したのに対し、クモは「影から逃げ続けた結果」として不死への執着に囚われたとも読めます。つまり、クモはゲドの「もう一つの可能性」を体現しているとも言えます。
このような多層的な解釈が可能なのは、ル=グィンが単なるエンターテインメントを超えた「哲学的ファンタジー」として本シリーズを構築しているからです。深いですね。
クモというキャラクターを深く理解するためには、映画だけでなく原作小説を読むことが不可欠です。原作は現在、岩波書店から清水真砂子訳で日本語版が刊行されており、文庫版で比較的入手しやすい状態にあります。
特にクモが本格登場する「帰還(Tehanu)」は、シリーズ4作目ですが単独でもある程度読めるよう構成されています。ただし1作目から読むと、ゲドやテナー(旧名アルハ)の背景が理解でき、クモの位置づけもより鮮明になります。1作目から読むのが原則です。
読む順番としては以下が推奨されています。
映画との比較で読む場合、まず映画を見てからシリーズ4作目の「帰還」を読むというアプローチも、クモという人物の違いに驚けるため面白い読み方です。これは意外と新鮮です。
原作を読む上でさらに理解を深めたい場合、ル=グィンが自身の作品論を語った評論集「夜の言葉(The Language of the Night)」(岩波書店)も参考になります。アースシーシリーズにおける「言語・名前・ジェンダー」についての作者自身の考えが述べられており、クモという存在を作者の視点から理解する手助けになります。クモを本当に理解したいならここまで読むべきです。
ゲド戦記の世界観を映像と原作の両面から楽しむことで、クモという謎めいたキャラクターが持つ深みが何倍にも増して感じられるはずです。